こんにちは、
ローラル・ラングマイヤーです。
アインシュタインはかつてこう言いました、、、
「世界の8番目の不思議はお金の複利の力だ」と。
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「投資なんて自分には関係ない!」
と思っているかもしれません。
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◆◆ナチス・ドイツ圏
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「Gigazine」◆(2010/11/24)【訃報】ホロコーストを生き延びた70年代ホラー映画の女王イングリッド・ピット,心疾患で死去
お前は誰だ(from「日刊都市伝説」) ご家庭で手軽にできる「ナチスの人体実験」
「カラパイア」:【動画】アンネ・フランクが映っている唯一の動画
●書籍
『20世紀ドイツ史』(石田勇治著,白水社,2005/07/25)
ドイツ近現代史の概説書,というよりも入門書か.前半は「ドイツ」の大雑把な通史で,さらりと読み流せばだいたいドイツ史の概略はわかる(無論,記述は近現代に重点が置かれているけれど).
もう知ってるひとは飛ばしてもさほど問題ないだろう.後半は,二つの世界大戦とナチズムに関する6つの問題について述べられている.
それぞれの章題は次の通り.1.帝国の幻影(pp.111-124)
2.戦争責任問題とヴァイマル外交(pp.125-140)
3.あるドイツ・ユダヤ人の軌跡――ホロコーストとドイツ社会(pp.141-157)
4.強制移住から大量殺戮へ(pp.159-172)
5.東部戦線――戦線のジェノサイド化(pp.173-188)
6.「過去の克服」とは何か――日独比較の視点から(pp.189-203)
個人的に一番関心 があるのは4章と5章.
4章はホロコーストの起源について,機能派的な立場から説明している.※1
ナチによるユダヤ人への民族浄化政策が,出国圧力→ポーランドへの追放→マダガスカルへの追放→ソ連領への追放→行き詰まり,という道筋を辿る中で絶滅政策を導いた,としている.
――――――
たしかにナチ・ドイツの反ユダヤ主義は,ホロコーストの前提となっていたし,ヒトラーはホロコーストの始まりに深くかかわっていた.
民族ドイツ人の帰還に多大な関心を寄せ,これを「ユダヤ人問題の解決」と結びつけたヒトラーは,親衛隊幹部との会合をとおして,移住政策全体の進捗状況をよく把握していた.
追放から絶滅へのユダヤ人政策の転換も,ヒトラーの了解なしにはあり得なかった.しかし,この政策転換をヒトラーの意思や,反ユダヤ主義の論理だけで説明することは困難である.
むしろ,戦争の予期せぬ展開と民族再編計画が頓挫し,窮地においこまれたナチ高官たちが,事態の打開を求めて,ヒトラーとともに選びとった道,それがホロコーストの始まりであった.(p.17 2)
――――――
5章では,仮借ない殲滅戦が行われた東部戦線が扱われる.
東部戦線においては劣等人種であるとされたスラヴ人と,ナチズムの宿敵とされた「ユダヤ=ボリシェヴィズム」に対する闘争が行われ,その過程でドイツ軍の蛮行はエスカレートしていった.
この章では特に,セルビアとベラルーシの事例がピックアップされて扱われている.※2
「東方」に注がれた視線は侮蔑であり,そして蔑んだ相手だからこそ,このような蛮行が可能になったともいえよう.さて,とりとめもなく感想を書いてきたが,本書の持つ価値については,『歴史学研究』第817号(2006年8月)に掲載された書評を引用して済ませる事にしよう.
――――――
〔……〕4つの書は,いずれも一般の読者向けに書かれているため,紙幅上の制限にくわえて,注釈や網羅的なビブリオグラフィーも持たない.
しかしながら同シリーズは,近年,とりわけ東西ドイツが統一された1990年代以降の,我が国のドイツ現代史研究の一線で活動する研究者が,どのような問題に取り組み,またいかなる成果をあげているかを示しており,その価値は,単なる入門書や啓蒙書のレヴェルにとどまるものではない.※3
――――――
また本書は,非常に有り難い事に,基本的な文献の目録が充実している(ぼくの教授の本はなかったけど……orz).
ドイツ現代史を知りたいと思うひとはまずこれを読むべきだろう.
※1:この前書いた,ホロコーストの基礎知識について - Danas je lep dan.では,反ユダヤ主義のみに原因を帰する理解へのカウンターという面もあったとはいえ,反ユダヤ主義を軽視していたきらいがあるかもしれない.
あと,最近の研究動向では「意図派」「機能派」という枠組みそのものの機能不全が指摘されているらしい.
詳しくは,小野寺拓也「歴史研究の『ミクロ過程論的転回』――『ゴールドハーゲン後』のナチズム・ホロコースト研究」『歴史学研究』第840号(2008年5月)を参照.※2:占領下のユーゴスラヴィアとそこで展開された民族浄化については,第二次大戦下のユーゴスラヴィア - Danas je lep dan.も参照.
※3:小原淳氏による.p.58.
――――――「ストパン」■(2009-04-03)[読書][中・東欧][歴史]ドイツ現代史の入門書を読む
「証言『第三帝国』のユダヤ人迫害」(ゲルハルト・シェーンベルナー編,柏書房,2001.7)
「ナチズムとユダヤ人絶滅政策」(栗原優著,ミネルヴァ書房,1997.3)
『橋 ユダヤ混血少年の東部戦線』(エルニ・カルツォヴィッチュ著,平凡社,1990.4)
読了.
著者は,非ナチの将校に助けてもらったり,運がいいな.
何回か出て来る"対戦車砲"は,前後の文脈から見て,パンツァーファウストの事だろうな.------------軍事板,2011/03/11(金)
『ユダヤ人を救え! デンマークからスウェーデンへ』(エミー E. ワーナー著,水声社,2010.11)
表題はあれだが,第2次大戦でデンマークがドイツに電撃占領されてから,1945年5月に解放されるまでの占領史で,その中の中心部分を為しているのが,1943年のユダヤ人の追放と,その追放からユダヤ人を匿い,スウェーデンに逃した話.
去年だったか一昨年だったかに出された,『ヒットラーのカナリヤ』と言う本と併せて読めば面白いかも.――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/11/18(木)
【質問】
第1次大戦後の旧ハプスブルク帝国地域で,反ユダヤ主義が高まったのは何故か?
【回答】
ハプスブルク帝国の遺物と見なされ,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになったという.
以下引用.
〔第1次大戦後の〕最大の犠牲者は,ハプスブルク帝国の臣民の中でも帝国に対して最も熱心で一番忠実だったユダヤ人であった.
帝国崩壊後,間もなくユダヤ人は大きな問題に直面した.
他の帝国の臣民にはそれぞれの祖国があったにも関わらず,ユダヤ人には無かった.
さらに,ハンガリーでユダヤ人の多くは1914年以前に同化し,マジャール人愛国者になっていたが,超国家主義者の標的になり,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになった.
旧帝国の他の地域,例えば,民主的なチェコスロバキアでも,多くのユダヤ人がドイツ語を話し,一般大衆からはドイツ帝国と結び付けられる場合が多かったため,ユダヤ人の評判は悪かった.
痛烈で誇大妄想的,内向きのナショナリズム同士が対立する世 界において,ユダヤ人は帝国の遺物だったのである.
またユダヤ人は,自分達の身の安全のために,経済においてあまりに突出した立場にいた.
ヒュー・シートン=ワトソンは,冷静に次のように述べている.
「1918年当時,ポーランド,ルーマニア,ハンガリーの産業の殆どがユダヤ人の手中にあり,銀行業も支配していた.
……専門的な自由業も,4分の1から3分の2の割合で,ユダヤ人に占められていた」12
この結果,ユダヤ人に対する不評は高まり,教育や雇用の面でも様々な制限が設けられた.とはいえ,この地域で最も反ユダヤ主義に染まっていた者にとってさえ,ヒトラーによる「ユダヤ人問題の最終解決」は想像を超えるものだった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.244
【質問】
なぜドイツで反ユダヤ主義が激化したのか?
【回答】
ドイツは,あまり関係のない人々が,共通の言語や文化なるものによって無理やりにくっつけられたため,は文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえないのだという.
現代でも,少なめに見積もっても国民の15%がファシズム的な価値観の持ち主であると言う.
以下引用.
おおよそドイツと言われている地域には,時には300以上の領邦国家や伯爵領や自由都市があり,フランス革命後に整理されたとはいえ,19世紀半ばでもまだ30以上の小国家群であった.
それが1871年に統一されてドイツ帝国となった.
しかし,人口比から見れば3分の1にも満たない市民層の言葉と共用の,ある程度の共通性があるだけだった.
あまり関係のない人々が無理やりにくっつけられ,特殊金属のようなもので溶接させられた感が強い.その特殊金属とは共通の言語や文化なるものであり,かつ,統一という軍事的および,それがもたらした未曾有の経済的成功である.したがって,19世紀後半のドイツ帝国は,法治国家ではあっても,主権は皇帝にあり,国民主権に基くデモクラシーという意味での国民国家で はなかった.
特に文化の基盤には「民族精神 Volksgeist 」などというものが想定されていた.日本でもその影響で「ゲルマン民族」とか,そのエキスとして「不屈のゲルマン魂」ゲルマン的サッカー」など,なんの根拠もない言葉が使われるようになってしまった.
〔略〕だが,こうしたエトノス〔民族〕に重点を置いた国家は,国民の一部に対する「差別」が西欧型※よりさらに強くなる.
高名な社会学者ライナー・レプジウスは,こう書いている.
「政治的主権の担い手としてのデモス(民)を,何か特定のエトノス(民族)と同一視するならば,どんな場合でも必ず結果として,ある政治的組織体の中での他のエスニック・グループ,あるいは文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえな い」
1871年以降のドイツ帝国の歴史は,ユダヤ人への,カトリックへの,また労働者階級への抑圧の歴史であった.
そして最後にヨーロッパ・ユダヤ人の全面抹殺のブログラムとなった.もちろん,この西欧型と中欧型の区別はあくまで理念型であって,実際には多くの混合型がある.
フランスではフランス語ができなければ文明人と見なされない時代が続いた点では,フランス語中心主義だったと言えるし,国籍に関する取り決めも,全てがいわゆる属地主義であったわけではない.
また,ドイツの場合も,長い間に東欧から色々な形で入ってきて定住したスラブ系の名前の人でも,代が替われば誰もがドイツ人と思うところがある.
しかし,国籍法を始め,国の根幹を支える価値体系にやはり大きな� ��があることは間違いない.
三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.23-24
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし
※自ら定めた共通の法の下に結集した民(デモス Demos )の作る政治的共同体という考え方である.
このデモスが歴史や文化や言語を共有している必要は,少なくとも理論上はない.
〔略〕
こうしたフランスやアメリカ式の,少なくとも理論上は,文化的共通性とか,ましてや血統上の同質性を前提としない国民国家のあり方を,西欧型と名付けておこう.
(同,p.21-22)
例えば,1969年と言えば学生運動の激しかった時代で,当局の監視の目は圧倒的に左翼の組織に向けられていたが,その年の連邦憲法擁護庁による半ば義務的な調査でも,90の組織に3万7000人の右翼過激派がいるとされている.
しかし,そうした「活動家」の数よりも重要なのは,社会学者,政治学者による様々なメンタリティ調査,つまりアンケートだけでなく,長いインタビューやディスカッションを入れた調査によると,西ドイツの住民は60年代から90年代まで一貫して,低く見積もっても15%ほどがファシズム的な価値観の持ち主であったことである.
フランクフルト社会研究所だけでなく,いくつかある有名な世論調査研究所の調査でも,そうした結果が出ている.専門家の疑問は,そうしたメンタリティの持ち主 が,社会の合理化,近代化に乗り遅れた下積みの人々に多いのか,あるいは多少とも時代について行けた人々のあいだに多いのかを巡ってなされていた.
そして実は,一般的印象とは異なり,後者の人々のほうが,右翼的心情に染まりやすいというデータがたくさん出ている.
人種差別や外国人排斥の温床は,社会の中核部分に常に潜んでいたのだ.
(同,p.78)
だたし,フランスでも決してユダヤ人差別がドイツに比べてマシとはいえないばかりか,むしろドイツより酷い場合もあるそうなので,それが上述のフランス語至上主義だけで説明できるのかどうか,なおいっそうのデータ蓄積が必要となるだろう.
【質問】
なぜナチはアーリア人を優遇してユダヤを迫害したのか?
【回答】
ユダヤ人は,ドイツの多くの地域で工場などの生産設備の所有者であり,社会資本の再整備に当たって邪魔な存在であった.
また,中世以降連綿と続けられてきたユダヤ人に対する蔑視・迫害も背景にあった.
(世界史板)
【質問】
ドイツが施行した各種法及び政策上においては,「ユダヤ人」はどう定義されていたのですか?
【回答】
ニュールンベルク法,ユダヤ人規定に準拠.
1,祖父母にさかのぼり,四人の祖父母のうち三人がユダヤ教徒の場合→ユダヤ人(ユーデ)
2,祖父母のいずれか二人がユダヤ教徒で本人も同様の場合→ユダヤ人(ユーデ)
※信仰していないと一親等ユダヤ系混血児(ユーディッシュ)とされる.
3,祖父母の一人がユダヤ教徒で,本人が違う場合→二親等ユダヤ系混血児とされる.
4,信仰はないが祖父母にユダヤの血が入っている者→ユダヤ系混血(ハルプユーデン)
※平時においては国民とするが非常時にはユダヤ人とする
【質問】
ナチスは何を証拠に,ユダヤ人を判別していたの?
ユダヤ教信者をユダヤ人としていたの?
【回答】
1935年11月14日付けでユダヤ人の概念を規定した条例が出されており,それによると,
(1)本人の祖父母4人のうち,3人以上がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ人(ユーデ)となる.
この場合,両親の宗教の内容は問われない.
(2)本人の祖父母4人のうち,1人がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ系(ユーディッシュ)となる.
本人がユダヤ教徒でない場合は,二親等ユダヤ混血児になる.
ちなみに祖父母2人と本人がユダヤ教徒の場合,本人はユダヤ人扱いになる.本人がユダヤ教徒出ない場合は,一親等ユダヤ混血児になる…等,かなりややっこしい.
本来,ユダヤ人を血統的なもの,人種として扱ってきたナチスだが,彼らの法による概念では 宗教の属性による分別が行われている.
仮に血統的に純粋なアーリア人がいたとしても,祖父母3人がユダヤ教に入信していた場合,彼はユダヤ人になってしまうのである.変なの.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME)
【質問】
ナチス・ドイツのユダヤ人への対応は,どのように変化していったの?
【回答】
最初,ユダヤ人をマダガスカル島に島流しにするつもりだったらしい.
で,戦争が始まったんで沙汰止みになって,今度はさっさとソ連をやっつけてシベリアに送るつもりが,戦局が思わしくなくてそれどころじゃ無くなる.
強制収容所を置いてるポーランドでは,食いもん足んなくなって総督が悲鳴を上げる.
ヒムラーがヒトラーにないしょで銃殺し始める.
で,ガスで「処理」する事にしたんだが,青酸ガスのバルブ開けるのはアルバニア人とかにさせてたそうだ.
そもそもアウシュビッツとかのガス室は,兵士の心理的負担を軽減するために作られたものだからね.
銃殺 を行う兵士に精神異常が相次いだことへの対策として,アイヒマンが殺人工場の建設を提案したのがはじまり.
軍事板,2000/07/08(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ国内では,ユダヤ人迫害に対し,どんな抵抗運動が起こったのか?
【回答】
例えば,署名運動や抗議の退学などが音楽学校学生によって起こった.
また,フルトヴェングラーはユダヤ系音楽家を擁護するため,新聞に公開書簡を発表するなど東奔西走した.
また例えば,ドイツ国防軍は,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城となっていた.
以下引用.
ドイツで1933年にナチス党が政権を奪取すると,ドイツ各地でユダヤ人が組織的に厳しく迫害されるようになった.!doctype>
公務員であったユダヤ系音楽家の多くは,公職からユダヤ人を排斥する職業的官吏再建法の成立によって解任されることになり,各地の音楽大学や劇場からも多くの音楽家が追い出された.
シロタの義弟でデュッセルドルフ国立歌劇場音楽総監督ホーレンシュタインもその地位を失った.
ピアニストのベルリン音楽大学教授クロイツァー,マンハイム国立歌劇場音楽総監督ローゼンシュトックなども,このとき解任された.ユダヤ人迫害のような蛮行が,抵抗なしに受け入れられたわけではない.
ナチスは反対派を厳しく弾圧したが,ベルリン音楽大学では学生がユダヤ人教授を擁護した署名運 動を行なって,ドイツ音楽界の名誉を幾らかは守った.
ユダヤ系の師と共に学校を辞めて,個人教授に切り替える学生も多かった.
ユダヤ系音楽家圧迫に反対した人々の筆頭が,ホーレンシュタインの師ヴィルヘルム・フルトヴェングラーで,彼はユダヤ系音楽家を擁護するために新聞に公開書簡を発表した.
この挑戦には,ナチスもいささかたじろいだ.
フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者であり,1934年に日本の外交官が日本外務省への公信で報告したように,地位,人格,才能から,ドイツ一般民衆の「圧倒的人望」を得ていたからだ.
この日本外交官は,ナチスに抵抗するフルトヴェングラーの背後に,ナチスの反ユダヤ主義に賛成しない多くの民衆がいると強調した.
保守的で愛国的であっても犯罪的行為には反対する人々のことは,ナチスにもなかなか弾圧できなかった.さらに日本の外交官は,とりわけドイツ国防軍が,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城であることを指摘している.
この観察も正しく,第2次世界大戦末期に,良心派の将校は1944年7月20日事件(ヒトラー総統暗殺未遂事件)まで引き起こした.ドイツ宣伝省のナチス官僚は,ユダヤ系音楽家を擁護するために東奔西走したフルトヴェングラーについて,
「フルトヴェングラーが擁護しようとしないユダヤ人を一人でも挙げることができますか」
と愚痴を言った.
ホーレンシュタインも地位を失い亡命した時,師の推薦を得て海外で再就職を試みた.
1933年にナチス体制が成立しても暫くの間� ��フルトヴェングラーの指導するベルリン・フィルハーモニーはトップ奏者にユダヤ系音楽家を擁していた.
その一人が,後にピアストロ・トリオの一員としてシロタとも共演したベルリン・フィル首席チェロ奏者のヨーゼフ・シュースターだった.
フルトヴェングラーはシュースター,コンサート・マスターのゴールドベルクなどユダヤ系楽団員をソリストとして器用,その実力を誇示してナチスに対抗した.
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U.S. Troops Raid Saddam's Hometown 2 May 2003
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これは、わずか530万人の人口と770億本の樹木を有するフィンランドが、人口あたりのF1ワールドチャンピオンをどの国よりも多く生み出しているフィンランドの秘密の一部である。
昨年ハミルトンを抑えてタイトルを獲得したフェラーリのキミ・ライコネンは、国土の4分の1が北極圏内にある同国出身の3人目のチャンピオンとなった。ライコネンは、1998年と1999年のチャンピオン、ミカ・ハッキネンと、1982年のチャンピオンで先駆者であるケケ・ロズベルグに続いた。� ��れは、40倍の人口を持つブラジルと同じチャンピオン数である。8人のチャンピオンを輩出している英国でさえ、人口当たりで考えるとチャンピオン数はフィンランドの4分の1である。
コバライネン、レート、サロによると、できるだけ速く運転することは、フィンランドの通過儀礼であるという。サロは「僕は2〜3人の友人と一緒にたぶん50ポンドくらいの自動車を買って、裏道で乗り回していた」と語る。「道路は閉鎖されていたわけではなく、行き止まりの道だった。友人に反対側から進入してくる車を止めてもらっていた。13歳くらいだったかな。家から2kmも行くと、車を爆走させることができる未舗装道路があった。みんなしているよ。度胸がつくんだ」
これは通常、砂利道で行われた。砂利道では車はアスファルトより� ��単に滑る。しかしフィンランドではアスファルト道路も冬季の大半は雪で覆われている。そして、スノーモービル(伝説のフェラーリ・ドライバー、ジル・ヴィルヌーヴが才能を磨いたことで有名)は人気のある娯楽である。したがって、滑りやすい場所でエンジンつき車両をコントロールする能力は、フィンランド人が早い時期から発展させる技術なのである。
またフィンランドは、他の国よりもスピードのスリルから少年たちの気を逸らせるものが少ない。サッカーは同国の文化にあまり浸透していない。主な国家的スポーツはアイス・ホッケーであり、6歳頃から多数の子供がゴーカートでレースをする。ゴーカートは、グランプリ・ドライバーの大半が経験を積むモータースポーツである。
!doctype>ある日、谷でFauaiと友達はそこを通りかかった立派な若者Tuaに会いました。
Tuaは"掟"を知らなかったので急いでFauaiに近寄り、彼女の手から緑の冠を奪い取ると笑いながら逃げていきました。
直ちに衛兵たちは彼を追い、捕らえて殺してしまいました。
※1893年 水彩「神秘の水」P.Gauguin
!doctype> 大航海時代とアメリカ大陸の地図上の発見
スペインのアメリカ大陸への進出
トーマス・フリードマン『フラット化する世界』の書籍を題材にして、経済活動のグローバル化と競争環境のフラット化の相互的な進展についてブログを書きましたが、その冒頭でヨーロッパの大航海時代について触れました。ポルトガルとスペインを中心にして起こった15〜16世紀の大航海時代によって、ヨーロッパ世界(キリスト教世界)は、アフリカの喜望峰廻りでインドとの通商航路を開拓し、大西洋を横断して新大陸のアメリカを発見しました。15世紀当時のキリスト教国(西ヨーロッパ)は、イスラム教国のオスマン帝国(1299-1922)によって経済活動が盛んなオリエント(東方地域)との交易ルートを塞がれており、オリエント(インド・中国・アジア)と貿易を行う為に、新たな通商航路を発見する必要� ��迫られていたのです。
イスラム教を信仰する強大な多民族国家・専制君主国家であったオスマン帝国は、スレイマン1世(在位1520-1566)が治める最盛期には東ヨーロッパから北アフリカ、小アジア、中東地域、中央アジアまでを支配する広大な領土を誇り、かつてヨーロッパ全土を網羅する史上最大の帝国を構築したローマ帝国に迫る勢いでした。小アジア(アナトリア)の小国として建設されたオスマン朝はイスラム教を布教しながら順調に支配領域を拡大していき、1453年にはオスマン朝の君主(スルタン)メフメト2世(在位1451-1481)が、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルを陥落させました。
東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1448-1453)は、オスマン帝国の10万の大軍勢に勇敢に突撃しましたがそのまま行方不明となり、東ローマ帝国軍は完全に壊滅させられました。紀元前8世紀のロムルスとレムスによる伝説的なローマ建国から数えると、西ローマ帝国滅亡後(476年以後)は名目的な継続性だけになっていたとはいえ、2,000年以上にわたる長大なローマの歴史は完全に終焉しました。
!doctype>数学A
英語Ⅰ
世界史A
だった竑
昨日とか今日の朝はヤバいとか言ってたけどそこまで酷くはなかった
でも世界史はムズいなやっぱり
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